その日から…

その日から…
19年前
大きい揺れの後、垂水の友人に安否確認電話の会話中に再び余震、電話が途切れる。

すぐにバイクで出発。
43号線を行くも大渋滞。
携帯ラジオをかけながら走る。
高速倒壊現場に差し掛かり、43号線を諦め2号線へ。
2号線も大渋滞。すり抜けて進むと道路のいたるところに50cm程の段差。
車は中央の植込みで迂回。
バイクを持ち上げて進む。
2号線を諦め山幹へ、そのまま下山手通りを進み大倉山から新開地へ、長田を通り抜け須磨から垂水へレーブドゥシェフのバイトの子のおうちが半壊と聞き手伝いに行く。
夕方まで作業。
スタンドに並びガソリンを入れ出発。
2号線は塩谷あたりで通行止。
離宮道に迂回。
長田を通り元町へ三宮が通れずセンター街を抜け北上そのまま2号線へ。
帰りにウエスティンにより報告。
ベーカリーシェフにパンの仕込み追加と取り置きをお願いする。
帰宅後、大阪と現地の温度差を感じボーイスカウト大阪連盟に人の派遣を依頼。

とにかく行かなくてはと思い友人知人の多い垂水を目指しましたが、途中でも助けを必要とされていた方はたくさんおられたと思います。
震災の画像を見ることができず、涙が溢れてきます。
当時の行動は間違いじゃなかったと思っていますが、ただ他にもできたことがあるのかもしれないと思うと辛くなり、自分の力のなさを痛感します。

19年経ちましたが、震災があったことを忘れてしまってはいけないと思い初めて書き起こしましたシュークリームなんかを笑いながら食べることができる幸せお菓子を作れるという事が実は当たり前じゃないという事お菓子屋の果たすべき役目はこんなところにもあると思います

この記事を書いた人

久保 徹也